大阪市立大学は1949(昭和24)年に創立されました。本学は、初代学長恒藤恭が自負したように、公立大学のなかでは総合大学の気質を持つ唯一の大学であり、また大都市大阪を背景として独自の歩みを続けてきた大学です。
本学の前身は、大阪商科大学・大阪市立都島工業専門学校・大阪市立女子専門学校・大阪市立医科大学ですが、そのうちもっとも歴史の古い商大の源流をたどれば、1880(明治13)年の大阪商業講習所までさかのぼります。
大学では、1980(昭和55)年に大阪商業講習所の設立から百周年を記念する事業がおこなわれ、その一環として『大阪市立大学百年史』全2巻4冊が刊行されました。この百年史の編集は、基本史料の不備に悩まされ、その収集のため本学各部局はもとより、市役所本庁・公私の図書館・国や地方の公文書館から個人所蔵の資料にいたるまで、手当たり次第に当たらなければなりませんでした。
本学の歴史資料の散逸、滅失の大きな原因の一つは、敗戦直後に占領軍によって商大学舎を接収され、大学が創立後も数年間にわたって仮校舎を転々としたことにあります。前身校が戦時中、空襲などの被害にあったこともまた資料滅失の原因となりました。
大学の歴史資料は、現在の大学運営の基礎資料であるとともに、大学自身を照らしだす鏡となり、さらには学生や市民が大学と学問を感得する手がかりともなるものです。たとえば、商大の生みの親ともいうべき大阪市長・関一(せきはじめ)は、商大開学にあたって国立大学の「コッピー」であってはならないと言い、その考え方は商大の学風に大きな影響を及ぼし、今も本学の一つのあり方を示す言葉となっています。しかし、そのことは『百年史』の記述ですべて明らかにされたわけではなく、むしろ関の思想と本学の学風との関係は新しい史料と新しい視点によって、多面的に検証することが今後も必要です。
1988(昭和63)年6月、評議会は、百年史編集の過程で収集した貴重な史料の散逸を防ぎ、その利用をはかるとともに、将来の大学史編集に備え恒常的に資料の収集・整理・保管をおこなうため「大阪市立大学史料室」の設置を決めました。「史料室」は、都市問題資料センターの一部を借りて発足し、藤田整経済学部教授が初代運営委員長となりました。1991(平成3)年5月、史料室はその任務をより明確に表すため、「大阪市立大学大学史資料室」に改組されました。あらたに室長が置かれることになり、毛利敏彦法学部教授が初代室長に任命され、その後1995(平成7)年4月、広川禎秀文学部(文学研究科)教授が10年間室長を努め、2005(平成17年度)年4月、大島真理夫経済学研究科教授が室長に任命されました。
史料室発足以来人手や資金不足に悩まされながらも、関係者の熱意によって、2000(平成12)年3月までに1万2000点以上の資料類が収集され、そのなかには篤志家から提供された写真・地図・日記、あるいは戦時中の日の丸の寄せ書きなども含まれています。資料室は、これらの所蔵資料の利用申し出にも可能なかぎり応じてきました。さらに1991年11月、本学の歴史について学内外の認識を高めるため「大学史展示コーナー」を1号館玄関脇に開設しました。
1996(平成8)年10月の学術情報総合センター開設にともない、資料室は、同センター6階に移転しました。これによって資料室は、独自施設の欠如と利用スペースの狭隘さという史料室発足以来の悩みから脱することができました。
また、大学史展示コーナーも同センター1階に移って、スペースも拡大しました。同センターの開設にあたっては同センターと共同で「大阪市立大学の創設と恒藤恭」という記念展示をおこないました。展示事業は、将来の大学博物館の芽になる可能性もあると思われます。1996年度から『大学史資料室ニュース』を年1回発行しています。1998(平成10)年3月には『阪神・淡路大震災と大阪市立大学の対応-大震災に関する大阪市立大学の活動資料リスト-』を刊行、また、2003(平成15)年3月には、初代学長恒藤恭の第一高等学校時代の日々の出来事や芥川龍之介らとの交友関係等を記したノート8冊に及ぶ日記を編集し、「向陵記-恒藤恭 一高時代の日記-」を刊行しました。その他の大学史資料室の刊行物についてはこちらをご覧ください。
本学では「大阪市立大学125年史」の編集計画を進めてきましたが、2007年3月に本編と小冊子を刊行しました。資料室は当面、資料収集体制の強化、資料の整理・管理体制の強化、利用体制の整備などが重要な任務となっています。
資料室は、時間の経過とともに失われるおそれのある重要な歴史的資料は、何はともあれ保存していく方針です。市大関係者の方には、資料類の提供とともに資料に関する情報の提供をお願いします。